ギリシャ共和国ギリシャの歴史をご紹介いたします^^;
ギリシャ共和国、通称ギリシャはヨーロッパの南東、バルカン半島最南
端部に位置する国である。
半島南部およびペロポネソス半島に加えエーゲ海を中心に存在するおよそ3000もの島によって構成される。北は西からアルバニア、マケドニア、ブルガリアと、東はトルコと国境を接しています^^,
本土の周囲は東にはエーゲ海、西はイオニア海、南は地中海に囲まれています。
ギリシャは地中海文明のルーツの一つであり、複数の文明の接点に位置する国としてヨーロッパ、アフリカ、アジアの歴史に大きな影響を与えた。
現在のギリシャは国連、EUおよびNATOの加盟国である。1896年と2004年には首都のアテネで近代オリンピックが開催されました。
ミストラスが発展期を迎えたのは14世紀も半ばのことである。帝位争いの内乱を経て即位したヨアニス6世カンダクジノスは、内乱で弱体化した帝国を再建すべく各地に親族を統治者として派遣した。
ペロポニソス半島には次子マヌイル・カンダクジノス専制公(在任1349年-1380年)が派遣され、
彼は1349年10月25日に到着した。
これがいわゆるモレアス専制公領の発足である。
マヌイルは半島全体の復興と発展に尽力したが、
中でもミストラスの発展はめざましいものがあった。
彼はミストラスに居を構え、専制公領の拠点にふさわしく、
また増加しつつあった人口に対応し得る都市作りを開始した。
彼は市街地を取り囲む城壁を建設し、各所に塔や門を建設して防備を固めた。
またヴィルアルドゥアンが建てた居館を増築して宮殿とし、行政の中心とした。
城壁内地区に移り住んだ人々はそれぞれの家屋を建設し、市街が形成されていった。
この時、市街建設の建材には既に廃墟となった古代スパルタの石材が多く使われています。
マヌイルがミストラスにもたらしたのは単なる都市空間の基礎だけではない。
一流の教養人を父に持つ彼は文芸にも理解を示し、戦乱・政争を逃れてコンスタンティノポリスやセサロニキから移住してきた文化人を保護し、また聖堂・修道院の建設を後援した。
自由な気風に満ち溢れたミストラスに於いて、文芸では人文主義、教会美術においては写実的な作風が特徴的ないわゆる「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれる文化興隆の一典型が形成されました。
少し後の時代になるが、「ギリシア民族の再生」を訴えた新プラトン主義哲学者ゲオルギオス・ゲミストス・プリソンを生み出したのも、このミストラスの環境であるといえる。彼はこの都市で研究し、教育活動を行い、1452年にここで死去した。
マヌイルの死後間もなくしてモレアス専制公領はパレオロゴス家の構成員による統治に移行したが(1384年)、ミストラスは変わりなく同地の政治・社会・文化の中心地であり続けた。
この時代にはさらに宮殿に謁見広間が増築されて現在の形となり、市街地はさらに拡大されました。修道院や聖堂の数も増加し、文化都市としての発展も続いた。
モレアス専制公領はコンスタンディノス・パレオロゴス専制公(後の皇帝コンスタンディノス11世)の許でアカイア公国を併合して半島の統一を達成し、さらにはアテネとギリシア本土に進軍する勢いを見せた。
ミストラスは中世ヘレニズムの中心地として、オスマン朝に周囲を囲まれて衰退を見せる首都コンスタンティノポリスを凌ぐ繁栄を謳歌した。
しかしモレアス専制公領の発展と繁栄も、遠く離れたコンスタンティノポリスを解放する力とはならなかった。
ギリシア本土に進軍したコンスタンディノスの軍隊はオスマン軍の反撃に遭い敗退し、専制公領にも大きな被害をもたらした。
コンスタンディノスは兄ヨアニス8世パレオロゴス帝の死去に伴い、1449年1月、ミストラスで戴冠しコンスタンティノポリスに向かった。彼がこの地を再び踏むことはなく、1453年5月29日、コンスタンティノポリスの陥落と共に世を去った。
今やバルカン半島と小アジアを統一する勢力となったオスマン朝に対し、東ローマ唯一の残存拠点となったモレアス専制公領は内紛に揺らぎ、抵抗する術を持たなかった。
1460年5月29日、最後のミストラス専制公ディミトリオス・パレオロゴスは進軍するオスマン朝のスルタン・メフメト2世に降伏開城し、モレアス専制公領の歴史は終わった。
くしくも、それはコンスタンティノポリスの陥落から丁度7年目の事であった。
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